障害者はいらないとか知的障害者が不要とか…それって正しいの?

知的障害者をいらないという人にひとこと

以前、神奈川県相模原市の障害者施設『津久井やまゆり園』で起きた殺傷事件に合わせて、「障害者がいらない」とか「知的障害者が不要」だという心ない人間がいることについて記事を書きました。

この相模原殺傷事件で犠牲になった障害者の人たちに対する世間の関心度が、健常者が犠牲になったと想定した場合と比較されてしまい、少なからず、このような意見が出てきたことは残念なことかもしれません。

 

ただ、障害者はいらないとか、知的障害者が不要という考えは、非常に短絡的で自己中心的な考え方なのではないでしょうか? このような思考が、小学生に有りがちな茶化しで、精神的に未発達な子供が言っているのならまだしも、このようなことを、大人が本気で主張しているのであれば問題です。

今回は、そのあたりについて見ていきたいと思います。

障害者はいらない・知的障害者が不要という考え

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「障害者はいらない・知的障害者は不要」と、このように考えている人がいるようです。

当然、「知的障害者は社会の役に立たない」なんてことを、人前で口にするようなことはないと思いますが、ネットでの匿名性を活かしたフィールドでは、このような主張をする人がいます。

障害者は、身体障害者・知的障害者・精神障害者の3つの区分に分けられますが、そのうち2つ以上の障害がある場合は重複障害者とも呼ばれます。

 

身体障害者というのは、わかりやすく言うと、パラリンピックに出ているような人たちのことですね。 あと、有名人で言うと、乙武洋匡さんや盲目のピアニスト辻井伸行さんなどがそれに当たります。 あと、スラムダンクやバガボンドで有名な漫画家・井上雄彦さんの『リアル』という漫画に出てくる登場人物も、身体障害者ということになります。

 

多くの人たちが障害者を知ると言えば、日テレの24時間テレビがパッと思い浮かぶのですが、この番組に重度の知的障害者などが出てくる機会はまりないように思います。  普段、私たちが、このような知的障害者、精神障害者と接することのない場合、実際の彼らの障害が与える周囲への影響というのはちゃんと伝わってはいません。

あくまでイメージとしては、日テレの24時間テレビに出てくる障害者は、重度の身体障害者だったり、軽度の知的障害者がメインとなっています。 ケチをつける気はありませんが、実際の知的障害者施設ではハートフルなものばかりではありませんし、どこかテレビ的な演出によるゴリ押し感は否めません。

 

今回、気になった、「障害者はいらない」と言っている人たちというのは、要するに「知的障害者はいらない」と言っている人たちなのですが、彼らはきっと、テレビが映すキレイな部分よりも深いところを知っているのから、そのように主張しているのかもしれません。

知的障害者といえども、その障害等級によって大きな差があります 一見、普通に見えるけど、ちょっとなんかおかしいなと思うような人や、1人で街を歩かせたら大変なことになるような人まで様々です。

そんな障害程度も様々な彼ら知的障害者全員がが、まともに何かを生産できるかといえば、作業所などの施設があるとはいえ、必ずしもそんなことがあるわけではありません。

 

いま、世の中が不況で、健常者である私たちでも生活保護を受けて生活したり、いつまでも貧困から抜け出せないワーキングプアとして生活しています。 あらゆる便利製品やサービスが過剰供給されている反面、誰もが必死に生きている時代です。

誰もが必死に自分の居場所を確保しようとする、このような時代の背景もあり、「知的障害者は必要ない」という声が出てきてしまったのかもしれません。

知的障害者はいらないって言うけど、それって正しいの?

障害者になった人を介護するイメージ

(劣性遺伝子を否定した未来を描いたSF映画『ガタカ』)

知的障害者はいらない…。

このことに対して、障害者基本法で人権が守られてるから、そんなことは言うべきでないと断ずることもできます。 しかし、法的にそうであったとしても、知的障害者は不要と考える一部の人間にとっては、心情的には納得いかないところがあるようです。

 

ひょっとすると、相模原殺傷事件の犯人のように障害者施設元職員で、内情を知り、ヘイトに回った人も中にはいるかもしれません。 相模原殺傷事件の犯人も、倫理的に破綻しているとはいえ、一見、まともそうな理論で障害者施設での凶行を果たしました。

しかし、はっきり言ってまともではありません。

しかし、自業自得とはいえ、その根底には、社会から認められず、医者からは精神障害と診断され、生活保護を受け、借金まで背負っていたという貧困な状況がありました。 犯人は、知的障害者が税金で養われているという事実に憤慨し、『この世に知的障害者及び重複障害者はいらない』と言う主張を抱え、迷いなく重度障害者を優先的に襲いました。

 

この犯人に、一理あったのか、なかったのか?

私は、この犯人の言い分はまったく同意できないのですが、そもそも、3年間も障害者施設に従事しておいて、なぜこのような狂った思想を抱いてしまったのかわかりませんが、普通であれば、施設責任者がこのようなことをしっかりと注意して然るべきだからです。 もちろん、危険ドラッグなどの影響があったのかもしれませんが、そもそもこの犯人もその税金で給料をもらってことを考えると逆恨みもいいところです。

施設利用する障害者がいるからこそ、施設職員は仕事を持つことができているのに、その障害者に向かって「不要である」という考えを持ってしまう。

なんと自己中心的で非道な考え方なのでしょうか。

私からすると、このことが一番不可解です。

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障害者と共に生きる社会とは?

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マザー・テレサが言ったように、無関心が一番いけないことなのかもしれません。

年に一度の24時間テレビの日以外、障害者福祉に対しては無関心だという人は多いと思います。 例えば、有名なアイドルが出るから観るだとか、芸人が無理な企画に挑戦するから観るだとか、それはそれで障害者福祉を意識するきっかけになるので素晴らしいことだと思うのですが、たった一日だけそう思っていても意味がないのです。

相模原殺傷事件の犯人に対しても、施設側は腫れ物に触るように無関心を装ったり、時々、注意をするくらいで終わっていたのではないでしょうか?

すべてに関心を持つことは不可能ですが、誰かが社会的弱者や立場の弱い他者に対して攻撃的な態度を見せるというのは、無関心こそが原因と成り得るのです。

 

誰もがこのような社会の落とし穴にはまる危険があり、誰もが社会的弱者になるかもしれない世の中で、「障害者はいらない」というのが本当に正しいのかと言われれば、それはやはり違うと思います。

資本主義社会で成功することは正しいことですが、分捕るばかりが正義ではなく、全体で社会を作り上げていくことは大切なことです。 時には無条件で手を差し伸べることがなければ、それは社会として成立しないのです。 富が自分のところにあればいいという思想は、いつしか自分を傷つけることになるかもしれません。

 

以前、海にある浮島の飛び込み台から海に飛び込んだ青年が頚椎に衝撃を与えてしまい、半身不随になったという話を本で読んだことがあります。 その時、飛び込んだ海が思ったよりも浅かったことで、身体への衝撃を上手く逃がすことができなかったと書いてありました。

誰もがほんの少しのきっかけで社会的弱者になるかもしれません。 

介護が必要な高齢者もそうですが、それは必ず自分たちも通る道です。

それは知的障害者や精神障害者だって同じです。 私たちと同じように人間的感情があります。 たとえ、パニックになって自傷・他傷で手に負えない時ばかり人でも、そんな人が、時折、誰よりも心穏やかに過ごす一瞬を見て、何か大切なことに気付く人間もいるのです。

 

1人で生きていくことが難しいのであれば、必然的に誰かの手を借りなければいけませんが、それ自体を否定する社会に未来はありません。

映画『フォレスト・ガンプ』や『アイ・アム・サム』は、知的障害者との交流をコミカルに描き、冷たい世の中で生きる私たちのこころをホッとさせてくれます。 しかしながら、現実は映画のような美談ばかりではないでしょう。

もちろん、知的障害者を同等の人間と同じように扱えとか、同情するなとかは言いません。 必要であれば手を差し伸べればいいし、今の自分の状況に感謝するだけでもいいと思います。 決して、自分が優位であると勘違いせず、或いは、そう勘違いしないために彼らがいるという考え方が、いまの私たちには必要なのではないでしょうか。

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4 Responses to “障害者はいらないとか知的障害者が不要とか…それって正しいの?”

  1. 名無し より:

    知的障害者を馬鹿にするものは、来世自分が知的障害者になり、精神障害者は全くやっかいだ、なんて言ってる本人も病んでいたりする。

    そんなかんじですかね

  2. 名無し より:

    自然界では、障害を抱えた動物はエサを確保できずに餓死するか、
    その前に弱って死ぬか、他の動物に食べられて死ぬ。
    いずれにせよ自然界では障碍者は容赦無く淘汰される。

    しかし今の人間社会では、障碍者も保護されて生きていく事ができる。
    それは人類がある程度進化した生物であるからだ。
    人類全体が、他者に対する慈悲の心を大事にし、
    その尊い心を向上させようと努めてきた結果だ。

    しかし、このような事件が起き、インターネットの様々な反応を見る限りでは
    まだまだ人類の進化は道半ばであると思い知らされる。
    他者に対する慈しみの心をどれだけ深く持つことができるか、
    それが今、試されていると感じる。
    自分さえ良ければいい、不要な弱者は切り捨ててしまえばいい…
    こう考えてしまう思考回路は、下等な動物と同レベルである。

    今の人類は、弱者を守る社会を作っていく事が大切だという事は理解している。
    でも、本音では面倒くさい。本当は、自分さえ良ければいい。
    それが今現在の人類全体の平均レベルなのだろう。
    高等な生物の思考回路と、下等な動物の思考回路が入り混じった状態だ。
    まさに進化の発展途上であるが故だろう。

    人類はもう一段階、進化しなければならない。
    下等な動物の思考回路を心の中に抱えている事を自分自身が認め、
    そのような醜い自己中心主義を意識して捨て去っていく努力が必要だ。
    人類全体が、もっともっと他者に対する慈悲の心を向上させていく必要がある。
    それが、これからの人類が歩むべき進化の道筋だ。

    進化した人類は、建前上の綺麗事として善行を為すのではなく、
    当然の事のように善行を為す事ができるだろう。
    心の底から他者を助けたいと感じ、
    その信念から迷う事無く行動に出ることができるだろう。
    進化した人類は「障碍者はいらない」などという発想自体が無い。
    いる・いらないではなく、ただ、助けたい。そう考え、行動する。
    助ける事に何らかの意味を必要としたり、見返りを求める事も無い。

    人類全体が、そのような真の慈悲の心が持てるようになれば、
    このような悲しい事件は二度と起こらないだろう。
    今の人類は、まだまだ進化の途上にある未発達な生物であると言わざるを得ない。

  3. ああ より:

    一度、突然知的障害者に抱きつかれたり、
    突き飛ばされたりしてみたら
    気持ちは変わるんじゃないか?

  4. ピーコ より:

    やっぱ、野放しにされてる
    障害者は恐いよ。。。

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